語学学校
こんにちは、のぐともです。
先ほどFacebookを見てたら私が留学して間もない頃の写真がたくさん出てきて、その懐かしい思い出に浸っていました。
私がカナダに留学を始めたのは5年前の2012年の春。中学を卒業したばかりの15歳の頃です。
今思うと本当にただの世間知らずの生意気な小娘だったと思います。留学してるってだけで自分が自立している気になってた15歳の小娘です。20歳になった今、当時のことを思い出すだけで自分に嫌気がさします。
私が勉強させてもらっていた語学学校は3回でも英語以外を校内で話している所を見つかるとレッドカード=強制退学、というかなり厳しいルールの学校でした。そのためか、日本人はさほど多くなく、きちんと自分が働いて貯めたお金で留学をしている生徒がほとんど。
親のお金で留学させてもらってる15歳なんて全クラス合わせても4人ほど。日本人は私ともう一人の女の子の2人でした。
「15歳で留学するなんて凄い」
とチヤホヤされ、歳上のお姉さんお兄さんにたくさん可愛がっていただきましたが、今考えると彼らの方がよっぽど偉いし凄い。
きちんと自分の目標、計画を立てた上で、自分のお金で留学をしていた彼らは15歳の私なんかよりもとっても英語に対しての意識が高く、学校の外だろうと英語しか話さない人も多くいました。
それに比べて15の私は、一歩でも学校を出ると友達と日本語のオンパレード。メキシカン、イタリアン、コリアンの中には仲が良かった友達もいましたが、どこに出かけるにも基本は日本人と行動を共にしていました。
それじゃあ英語が伸びるわけがない。
と思ったんですがそこはまぁさすが15歳。
大人よりも吸収はそれなりに早く、たった4ヶ月程でしたが、全く英語が話せない状態からは抜け出し、友達と会話をする程度の英語力は備わっていました。
まぁ、この程度で英語ができる気になっていた私は現地の高校に入学後に、あまりの英語のレベルの高さに痛い目を見るのですがそれはまた別のお話です。
私が語学学校に通っていたのは5年も前。
当時私は15歳だった訳ですが、周りの友達はすでに20歳前半から後半の人がほとんどでした。
そんな私は今、20歳。
当時の彼らの年齢に追いつきつつあります。私の中であまりこの5年間で大きな変化があった気はしませんが、彼らにとってこの5年間はとても大きなものだったようです。
私の知る限りでも10人ほどが結婚をし、その内の7割ほどはもう子供もいます。
たかが5年、されど5年。
私の中での変化は高校を卒業し、大学に入り、成人になったことですが、彼らの変化は自分の人生だけでなく誰かの人生を丸ごと変えることのできるほど大きな変化です。
すごく仲が良くて、いつも私を可愛がってくれていたコリアンのお兄ちゃんは、将来私と結婚するって約束してくれたにも関わらず今ではもう息子がいます (笑)
それでも時々インスタやフェイスブックにコメントをくれて、私の心配をしてくれるので本当にありがたいなと思います。
もう5年も会ってないのに…
そう考えるとSNSの存在ってとても素敵だなって思います。会ってなくてもずっと繋がっていられるから。でもやっぱり実際に会いたいですね。
正直、彼が結婚の報告をフェイスブックにポストしたときは「えぇ!私と結婚するって約束したじゃん (笑)!」なんて思いましたが、それと同時にかなり嬉しかったのも事実です。子供が産まれた時なんかはもっと嬉しかった。
たった4ヶ月しか一緒に過ごすことはできなかったけど、それぐらい私にとっては大好きなお兄ちゃんだったし、それぐらい可愛がってもらったんです。
どれだけ一緒に過ごしたかってのは大事だと思いますが、それ以上にどれだけ濃い時間を共に過ごしたかってことが大事ですね。
もし今再会したらきっと泣きじゃくって抱きつくと思います。全然私そういうキャラじゃないけど (笑)
このコリアンのお兄ちゃんだけじゃなく、本当にたくさんの人に良くしてもらったんです。15歳だからという理由で色々奢ってもらったりもしましたし、知らないことも色々教えてもらいました。本当に感謝しています。
私が彼らにたくさん良くしてもらった分、今度は私がそのしてもらったことを歳下にしていくべきなんだろうなぁ。
とりあえず、あの頃のみんなに会いたくて仕方ありません… でもどう頑張ってもきっともう全員で集まることはほぼ不可能ですよね。みんなそれぞれ違う国で、違う人生を歩んでるわけですしね…
留学という目的にフォーカスしすぎると、ついつい日本人と距離を置きがちです。もちろんそれも時には大事だと思いますが、海外の人とだけではなく、日本人との出会いも大事だと私は思います。
留学中の出会い、特に語学学校での出会いは一期一会。一度さよならをしてしまうと数年後にまた再会、というのはかなり難しいと思います。
なのでこれから留学する皆さんには、「英語を勉強する」という目的だけではなく、留学中の人との出会いも大切にして欲しいです。
のぐとも
共生幼児教育
こんにちは、のぐともです。
今日は久しぶりに少し真面目な記事を書かせていただこうと思います。
このことについて書こうと思ったのはある教育クラスで出会った本がきっかけでした。
Te Aotūroa Tātaki—Inclusive Early Childhood Education | New Zealand Council for Educational Research
この本はニュージーランドの幼児教育界の共生社会への考え方をまとめたものなのですが、とても大事なポイントがいくつも載っていて、これをたくさんの人が知ることによって日本もより良い共生社会に一歩近づけるのではないか、と思ったので今回この記事をまとめています。
少しハードですが、もしかしたら英語の勉強にもなるかもしれないので是非読んでいってください (笑)10チャプターに分かれて、共生社会について考えがまとめられているのですが、私が障がいを持つ姉として一番共感し、知っておくべきだと思ったのはチャプター9です。なので今回はこの本の中でもチャプター9の中から少しまとめたいと思います。
とりあえず原文をそのまま引用しておきます。一応、私のつたない和訳も載せておきますが、訳し方も感じ方も人それぞれなので自分が感じたように受け止めてください。
Inclusive education for children with disabilities and their families is premised on three key ideas:
・all children and families have the right to access and receive a quality early childhood education in thier local regular early childhood service
・all children can benefit from an inclusive early childhood educaiton
・an inclusive early childhood system is an esential component of helping create an inclusive society for all. (p. 155)
ざっくりと説明すると...
障がいを持つ子供やその家族にとって子供の共生教育とは以下の3つが大前提である。
-全ての子供とその家族が質のいい幼児教育を平等に普通のローカルのサービスで受けられる権利を持っている。
-全ての子供に得るものがある。
-共生社会を作るにあたって共生教育は重要な要素である。
8 Key factors of inclusion
インクルージョンにとって大切なポイント
1. Discourses of disability
2. Service policies
3. Teaching practices
4. Assessement
5. Collaboration
6. Early childhood learning environments and communities
7. Management and leadership
8. Resourcing
Do you perhaps believe that disability is an individual flaw and that "helping" children with disabilities requires fixing or treating the impairment and making them more "normal" so that they can participate more fully in society? This type of thinking about disability is, according to Skrtic (1995), very dominant in society and is influenced by medical and special education discourses of disability. These discourses locate disability within assumptions of pathology and normative differences, and see the "problems" of children with disabilities primarily as a product of their impairments. The focus, therefore, is typically on special education and other (i.e., assessment and diagnosis) and on fixing the problem or deficit (i.e., treatment and remediation). (p. 158)
障がいを欠陥と考え、障がいを持つ子供の”手助け”とはその欠陥を直すことであり、彼らをより”普通”にすることで、彼らが社会に十分に参加できるようになるという考え方は支配的で、医療や特別教育に影響されたものであるということ。そして、こういった考えは彼らの"問題"を文字通り"障害"として捉えてしまうので、特別教育や特別支援、その問題や欠点を直そうとする治療教育に焦点が行きがちになる。そのため、プログラムは子供それぞれのニーズや学習方法に沿ったやり方ではなく、個人のニーズを無視した一般的な教育がメインになってしまいます。
One of the outcomes of this remedial approach is that childre are labelled, perhaps even stigmatised, from an early age as negatibely different and as having "special needs", a situation that favours the attitudes and practices associated with exclusion. (p. 158)
治療教育に焦点を置いたやり方は結果として、幼い頃から子供に"特別支援"などというレッテルを貼ってしまってるわけなので、違いを浮き彫りにしてしまって逆に差別を生みやすい状況を作ってしまう気がしますね。
Perhaps you concider children with disabilities and their families to be victims of a tragic circumstance, or maybe sources of inspiration? The charity discourse perpetuates the idea that disability is a personal tragedy. (p.159)
チャリティーなどの慈善行為は人々に”障がいは悲劇だ”という考えを植え付けてしまい、障がいを持つ子供やその家族を不幸の犠牲者として、インスピレーションの源として見てしまう。慈善行為を見る当事者たちは”かわいそう”と勝手に哀まれたり、軽蔑されたり、すごく心配されたり、無視されたり... でも果たしてそれが障がいを持った人たちが求める反応なんでしょうか?違いますよね。つまり慈善行為というのは偏見をなくすどころか、逆に偏見を生むことが多いんじゃないでしょうか。
The negative assumptions and stereotypes about disability perpetuated ... tend to exacerbate such fears and prejudices in people. Therefore, the types of attitudes emanating from lay discourses relagate children with disabilities and their families to the position of "the other", a situation which makes them vulnerable to discrimination and exclusion. (p. 159)
障がいに対するネガティブな固定概念や推測は人々の先入観をさらに悪化させる傾向があり、障がいを持った子供やその家族を「自分たちとは"違う"」と決めつけ、そういった状況が彼らを差別の対象へと追いやってしまうみたいです。
A rights and sociocultural discourse of disability promotes the view that it is disabling attitudes and environments - not the disabilities per se - that cause disability. (p. 160)
障害を生むのは障がいそのものではなく、世間の障がいへの見方や環境でもあるんですね。
... special education typically favours developmental, normative and skills based approaches to assessment. These approaches highlight what children cannot do rather than what they can do. (p. 164)
障がいを持った子供達が「できないこと」に目を向けるのではなく、彼らが「できること」に焦点をおき、そこを伸ばしてあげるべき。
誰だって短所はあるけど、短所ばかり見ていたら長所には気づけないし、伸ばせない。短所をうまくカバーするために長所があると私は思ってます。それぞれの子供の長所を見つける手伝いをし、その長所を伸ばしてあげるカリキュラムをそれぞれの子供別に作る。実際にそれを実行するのがどれだけ大変なことかは分かっていますが、一人一人の子供と向き合ってそれぞれのニーズに合わせるからこそ長所が伸びるんだと思います。少なくとも私がなりたい教育者とはそういうことです。
今回まとめたのはチャプター9についてですが、この本は教育者になる前に、人として共生社会を目指す者として、とても参考になることばかりでしたし、改めて気づかされた部分も多かったです。
ぜひ読んでみてください!
のぐとも
英知持つもの英雄なり
少しでも障がい者へのネガティヴなイメージをなくすため、きちんとした理解を増やすために日本はもっとinclusive schoolsを作って小さい頃から実際に障がい者と触れ合う機会を多く持つことが必要ではないかと思います。いつか日本で教育者として働ける日が来たらこれを実現できるように今をもっと頑張ります!
プロジェクト
そのあとはホットウォーターを注ぐ。そしたら氷の形が変わっていって、それを見てるのがすごく楽しかったです!これは絶対子供は喜ぶと思う。
そして更には氷とglitter glueを使って遊んでみる。glitter glueと言っても糊ってよりかはラメペンですね。
こうやって落書きしてました〜
そしてそれをまたまたホットウォーターで溶かしてゆく〜〜 ラメがいい感じにアイスと混ざってとても綺麗だった!これは子供のaesthetic senseを伸ばすにはいいと思います。
たくさん作りました。
どうやって作ったのかは自分でもわからないんですが、ムーンの形をした氷もありました!
命の重み
やっぱりどんな理由であれ命を投げ出すことは絶対にダメだと私は思うんです。死ぬ前に、必死で生きようとしてる人の事を考えてみて欲しい。 その捨てようとしてる命は誰かにとっては喉から手が出るほど欲しいもの。自殺するぐらいなら、その命を必要としてる人にあげるべきなんじゃないかな。必死に生きている人はどんな気持ちで自殺というニュースを見ているんだろうね。
真夏日
こんにちは、のぐともです。
また天気が悪くなってしまって最近は毎日です。
先週は雲ひとつない綺麗な空で、真夏のように暑かったんですが... 飛行機雲がこんなにはっきりと見えるぐらい雲がない真っ青な空でした!
気温の変化に体が追いつきませんよ (笑)
まあ、1週間ほど遅い更新になるのですが、先週ビーチで読書してた時の写真を載せたいと思います。ほとんど自撮りになりますが許してください... 今回はかなり盛れたんです (笑)
注*写真は実物とは異なります。 (笑)
あと少しで夏セメも終わり、日本帰国も近づいて来てます。
楽しみだなー
帰国までにまたこの真夏日みたいな日を味わえるといいです!
のぐとも
山梨家族旅行
こんにちは、のぐともです。
日本は異常に暑いですね。
お父さんと2ショットとか何十年ぶりか分からない...
家族3人で撮りましたが、まさかのSNOW (笑)
次はちゃんと弟も一緒に!
帰りはサービスエリアで美味しい巨峰ソフトを食べ、途中の桔梗屋では噂の信玄餅ソフトクリームを食べました。体重がこの4ヶ月で4キロも増えてたみたいですが、気にしません。